メアリー信仰/日記

※日記なのでオチはない
 
 
小さい頃から外遊びはあまり好きじゃなかった。昼休みも帰り道も、お風呂でも車の中でも本ばかり読み続け、通信簿には「読書もいいですがたまには外で遊びましょう」と書かれた。それでも構わず校庭にかけていく友達を見送って、自分は本の世界に没頭した。
そんな本の虫である私が繰り返し繰り返し読んだ作品の1つがメアリーポピンズシリーズである。展開がわかっていようが読んだ。風呂の湿気でふやふやになろうが読んだ。本当に何べんも何べんも飽きずに読んだ。1910年のロンドン街並み。雨の香り。メアリーの不思議な親戚たちとの出会い。空へ、ジャングルへ、絵の中へ。妄想力逞しい私は、うっとりとその世界に想いを馳せた。何度目であっても浸ることができた。メアリーの真似をして鼻を鳴らし、妙に時代遅れな言葉を好んで使った。

赤毛のアン長くつ下のピッピ霧のむこうのふしぎな町にメアリーポピンズ。こういう「繰り返し読んだ作品」は私にとって聖書というか教典というか「お袋の味」みたいなものである。しっかりしみしみじっくりつゆだく。日々思い出すわけじゃない、でも忘れない。大好き!というより、当たり前にそこにある感じ。私を構成するものたち。DNA。遺伝子。
 
今日、メアリーポピンズ リターンズを観に行った。「わ〜い」くらいのテンションで挑んだのだが、メアリーが登場した瞬間に泣いた。影だけで泣けた。というか影だからこそ泣けたのかも。顔や姿形がハッキリしたらなんとなく「エミリーブラントメアリー」っていう風に意識してしまうけれど、影だけならメアリーはまだメアリーだもの。風にのってさくら通りを去ってしまったメアリーが戻ってきた。ジェインのもとに、マイケルのもとに、そして私のもとに!!!ああメアリー...。まあ、メアリーがシカゴ風に踊るのは多少違和感があったが、それはそれ、これはこれだ。そもそもジュリーアンドリュース版の時から世界観やキャラクターは大幅に違うしね。どちらも私は好き、きっとそれでよし。
 
思わぬ形で自分の中にある信仰心を発見して、なんだかうっとりとした気分でいる。ファンでもない。憧れでもない。これはもはや信仰で、私の中に組み込まれたものなのだ、たぶん。きっとみんながそれぞれの信仰や、おとぎの世界を持っている。レコード、絵本、風景、アニメ、新聞、毛布、におい。つまらん大人になっちまったが、私の中のおとぎの世界は枯れていない。これからだって枯れやしない。いつまでも。そう、いつまでも。
 
 
“Don't you know that everybody's got a Fairyland of their own?”
「だれだって、自分だけのおとぎの国があるんですよ!」
風にのってきたメアリーポピンズ  より

 

 
ついき1
「リターンズ」を見る予定の方は、1964年公開のジュリーアンドリュース版を先に鑑賞することを強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く×10000000おすすめする。前作を見た人が嬉しくなるような小ネタが満載。前作を見るだけで「心温まるポイント」がぐっと増える。前に見たことあるからいいよ、って方ももう一度見直したほうがいい。細部を思い出しておいたほうがきっと楽しめるよ。

ついき2
奇しくも(?)聖母マリアの英語表記はMary、Mary Poppinsと同じである。彼女は聖母っちゅー性格じゃあないけど。
 

ばななの話②

10月13日、明るい雰囲気の待合室。母ヨーコは緊張しすぎて涙ぐみ、私はゲロを吐きそうになっていた。私たちの周りだけ、落ち着かない、気忙しい雰囲気が漂っていた。そう、ばなちゃんの初めての「セカンドオピニオン」である。


前回のブログを投稿する数日前、ばなちゃんにセカンドオピニオンを受けさせる決断をした。私たちは、ばなちゃんにとってのベストはなんなのかが知りたかった。そして私個人で言えば、やっぱりどうしたってばなちゃんが炎症性乳がんだということが信じきれなかった。

いつも行く地元の「てら先生」が紹介してくれた「動物のがん治療の神」の元へ、車で片道1時間半の旅。我が家的には“遠出”である。(とはいっても私の彼氏が運転してくれた…優しい)道中のコンビニなんかでは「なんだか家族旅行みたいだなあ」と勘違いしかけたが、カーナビに表示される「予測時間」が短くなればなるほど、思わずため息を吐かずにはいられないのであった。

明るい雰囲気の待合室。優しく愛想のよい看護師さん。30秒に1回ため息をつくヨーコ。ビビるばなな。胃が痛い私。を、見つめる困った様子の我が彼氏。
私の頭の中では、テンパった時に流れるQueenボヘミアンラプソディが鳴り響いていた。全然イージーカム・イージーゴーなんかじゃあないけどな!!!!

「診察室におはいりくださ〜い」と言われた時の、ヨーコの凍った顔!!しかし、それもそうである。診てくれる先生は、がん治療において日本一と言っても過言ではない。これ以上は私たちには思いつかない。診断されたら、もう、それは覆らないのと同じだ。これは「最後の審判」なのである。

前回のブログで私は「奇跡はおこらないのだから奇跡だということも知っている」と書いた。ばなちゃんは乳がんの中でももっとも悪性度が高く、手術もできず、罹れば数ヶ月で亡くなってしまう可能性が高い「炎症性乳がんの疑いが強い」と診断されていた。病理検査の結果でも「炎症性が〜〜」だのなんだのと書かれていた。

神(のような)先生は非常に手際よくばななをひっくり返し、さささと暴れるばななを宥め、丁寧に触診して言った。「これ、炎症性じゃないと思います。これは手術できるよ」

私は泣いた。奇跡はおこらないと自分に言い聞かせ、でも「こんなにばくばくとご飯を元気に食べるばなちんがあと数ヶ月だの、半年だのってことある?」と疑い「いや、期待するな」と涙ぐみ「いやでもやっぱりおかしくない?」と眉を顰める。そんな苦しい日々だった。けれど、ブログを読んだ様々な人がばなちゃんに会いに行くねとわざわざメッセージをくれたり、ばなちゃん用のお手製の発泡スチロール敷居に絵を描きに来てくれたり、つくづく人が好きになった日々でもあった。


コトは“奇跡的”にうまく運んだ。
「神みたいな先生」の元には当然ながら全国から患者さんが集まるのだが「セカンドオピニオンを受けたいです」と表明した2日後に、地元の「てら先生」が無理やり予約をねじ込んでくれた。セカンドオピニオンを受けた3日後に手術に向けた検査を受けられることになった。検査の結果、心臓も手術に耐えられることが判明した。11月2日、ばなちゃんはてら先生のもとで手術をした。そして今日、ばなちゃんは退院した。ご飯をぱくぱく食べ、私たちの手をベロベロ舐め、今は私の横で包帯ぐるぐる巻きになりながらすやすやと眠っている。前回のブログを書いてから、たった3週間足らずでここまできた。

本番はここからだ。
抗がん剤なのか、放射線なのか、はたまた何か別の治療法なのか。心臓は大丈夫なのか。目は大丈夫なのか。胆のうは大丈夫なのか。今回のがんが炎症性に変化することだってある。そして、14歳という年齢は決して若くない。どんなにぷりぷりでキュートで食欲旺盛でつるつるであっても。

それでも、私はばなちゃんが幸せそうにしているこの時間が愛おしい。おやすみを言いに行くと、ぺろと私の鼻の頭を撫でてくれるこの子が愛おしい。一緒に生きる時間をくれた全ての人と、何よりばなちゃんに、いっぱいの大好きと、ありがとうを。

会いに行く〜って言ってくださった皆々様、本当にありがとうございます。「ブログ読んだよ」って心配してくださった皆々様、本当にありがとうございます。とても、とても嬉しかったです。私はこのことを忘れないと思います。臭いね。でも、これほんとう!

私が望む「奇跡」はおきたけれど、永遠はだれひとりにも、だれいっぴきにも与えられていないのがこの世の中の仕組みなので、やっぱり、おヒマな時にでも会いに来てください。愛を込めて。

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術後2日目のばなちゃん。

 

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帰って来たばなちゃん。

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私の世にもダサい緑ジャージの上でくつろぐばなちゃん。

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今、ねてる!ばなちゃん!






ばななの話

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全日本ラブリーキューティー選手権1位、かわいすぎる大使に任命された我が家のばなちゃんは8月で14歳になりました。人間でいうと72歳くらいだそうです。人間の歳で表すのに意味があるのかはわからんが。

 彼女は年齢を重ねるごとにドンドコ見た目の可愛さレベルが向上している魔性の犬。いや、ほんとに。飼い主の贔屓目があるにしたって違う!ちっちゃい時は「ブスカワ」ジャンルに属していたのに、今じゃ「マジカワ」ジャンルにいるもん。写真を見比べると全くの別犬だもん。私はこの14年で毛穴レスな肌を失い、あぶらとり紙にガッツリと、カレーパンのようにあぶらが付着するようになったっていうのによ!!!!近ごろはエンドレスな吹き出物に悩まされている!!!!!それなのにお前はかわいくなる一方だ!!!!!!!!
  
 そんなばなちゃんは、実は色々な疾患を抱えている。9歳の頃に良性の乳腺腫瘍と子宮蓄膿症が発覚し、切除手術。無事完治。ところがそのせいかなんなのか、退院して1日後に両目とも網膜が剥離して全盲に。11歳になるころには緑内障で眼圧がすこぶる高くなった。そして心臓の肥大と胆のうの機能悪化なども見つかった。数か月前には心臓の悪い子がかかりやすいという肺水腫になりかけ入院。今は1日3回、目薬3種類(一時期は5種類もあったが!)とお薬毎食4種類。
 こんなことを書くとやつれたばななのイメージを抱かれそうだが、母ヨーコが買ってきてくれる1缶600円(私たちの食べているものより高級だぞ!と専ら話題)のおいし~~くて体にい~~いご飯のおかげと、毎日頑張ってお薬を飲んだり、通院しているおかげで、ばなちゃんはふっくらつやつや食欲旺盛な元気ちゃんである。

そんなばなちゃんに、また乳腺腫瘍が見つかった。乳腺腫瘍には良性と悪性(つまり癌)があって、その中でもまた種類がある。どちらにせよ、手術は本当ならばするべきである。ただ、ばなちゃんは心臓も弱いし、高齢犬だから「手術をするべきかどうか」検査結果が出るまで、これが我が家のトピックだった。

 

そして一昨日、結果が出た。「炎症性乳がんの可能性が高い」というのが、病理検査の結果と診察をもとにした先生の診断だった。

私はずっと、結果が出るまで祈っていた。炎症性乳がんじゃありませんように、と願っていた。炎症性乳がんは犬の乳がんの中でも発生率が10%以下とまれだから、きっと違うはずだと信じるようにしていた。


 手術をすると炎症が広がってしまうのが炎症性乳がんだ。下手すれば傷すら治らなくなるから、手術ができない。手術をする、しないじゃあない。できないのだ。有効な治療方法はない。ちょっとでも炎症を抑え、進行を食い止められるように薬を飲むしかない。転移しやすく、2週間から3か月で肺やリンパに転移する可能性が高い。そして多くの子が診断を受けて、数か月で亡くなる。


 何とかならないか、何かいい治療方法はないか、必死に検索をしても「最悪の癌」みたいな言葉ばっかり、出てきやがる。炎症性乳がんと診断されたワンコの飼い主のブログも色々読んだが「診断を受けた日」そして「旅立った日」の記事の間隔が、3か月、4か月、8か月。ひと桁。

私はおかしいと思う。ばなちゃんは元気だ。疾患も沢山あるけれど、朝になればご飯を強請り、隙さえあれば私の手をべろべろと舐め、おやすみのチューもしてくれる。体重もしっかりしていて、手術をした7歳の時より、ずっと毛並みもいい。レントゲンで調べてもらったところ、肺もリンパにも転移していない可能性が高いそうだ。そう。転移していない。だから、元となる癌さえ取ってしまえばいい。でも、手術ができない。手術しちゃいけない。手術は禁忌。そんなことってある?70%の子が3か月以内に亡くなる?今こんな元気なのに?元気なのに?元気なのに?そもそも、本当に炎症性乳がんなの?違くない?元気だもんこの子。似ているようで違う何かじゃない?

 

そういうことばかりをぐるぐる考えていて、仕事の昼休み中も調べては地味にべそをかき、帰りの電車でもべそをかき、朝の駅でもべそをかき、家でわあわあ騒いでいる。

ばなながまだ4歳くらいのころ、眠っている姿を見ていたら無性に愛おしく、そして切なくなって「ああ、この子もいつか」と思ってじくじくと泣いたことがある。近年、それが現実的になっているような気がして怖かった。常に目をそらしてきた。けれど、たったペラ紙1枚の病理検査の結果は確実にわたしが恐れていたものを突きつけてくる。

母ヨーコに「今は泣くんじゃなくてどうやったらばなちゃんが快適に過ごせるかでしょう、私たちが覚悟しなきゃ」と言われ確かにな~その通りだなと思いつつ相変わらずべそをかいている。もうゆるゆるだ…本当…。

 

何が言いたいのだか全くわからないようなブログになってしまったが、いまさら結論を言うと、ばなちゃんと今まで会ったことがあるみなさん、ぜひ遊びに来てください。ばなちゃんは人が割と好きで、昔から私の友達などが遊びに来ると大はしゃぎだった。年を取って暴れはしゃぐことは無くなってしまったけれど、今でもぺろぺろと手を舐めまくってお出迎えし、我が物顔で膝の上を陣取る。長生きしてほしいけど、本当はどうでもよくないけど、この際あと何か月~とかそんなのはよくて、ただただばなちゃんが「私めっちゃ愛されてるーーーーーー!」と、思って日々を過ごしてほしい。飼い主の勝手なエゴな気がしてしょうがないが、でも、お暇な時にでも、べろっべろに舐められにやってきて下さい。直接聞きまくるのはなんだかおこがましいような気がして、こんなまわりくどい場でお願い事を、してみます。

 

後は単純にわたしがんばるからね~~~~!っていうのとかなしいよ~~~~!っていうのを書いて紛らわせたいだけ!山なし!落ちなし!意味もなーーし!ひねりもなし!面白くもなし!それだけ!!!!!!!!!!!でもさ、ばなちゃんがはっぴ~~~に毎日過ごせるようにおねえちゃん、がんばるよ。ダメな姉だけど、がんばるよ。

 

 

そして私は奇跡はおこらないのだから奇跡だということも知っている。知っているけれど、しかし、それでも願わずにはいられない。私の寿命を分けてあげられたらいいのと、今はただ思っている。

 

 

 

 

 

 

ロックナンバー


ひろゆきという男は、なかなかに変なやつである。御年49才。純日本人だが、どことなく東南アジア風の顔をした中年男。表情のバリエーションが乏しく、常にローテンションな癖にラインになると「おはよう!ごめんね、いつの間にか寝ちゃってた(´;ω;`)山本のハンバーグがいいかなぁ(*^ω^*)」(※どこで食事をするか決めていた時のもの)と途端に乙女ぶる。JKか。

趣味はテニスと岡本太郎のグッツ集め。「メルカリでさ、岡本太郎ガチャガチャって検索してみてよ」と言うので検索したら「それ落札したの俺」と謎の報告をしてくる。だからなんだというのだ、ひろゆきよ。

たまにラインをしてきたと思ったらツムツムの得点の上げ方についてだし、好き嫌いが多くすぐに風邪をひく。冬に沖縄に行って、イルカとの触れ合い体験をしたら風邪をひいた。ホテルにて小学生の実子に看病をされる。ちなみに新婚旅行の時の沖縄でも風邪をひいたらしい。肝心な時に決まらない男である。結婚したらタバコを辞めると宣言したが失敗。子供ができたらタバコを辞めると宣言したがこれも失敗。子供が生まれたらタバコを辞めると宣言したがとうとうこれにも失敗。多分辞める気は最初から無い。

なにを考えて日々を過ごしているのかが非常にわかりにくい、トンチンカン星人ひろゆき。何を隠そうこの男、私の父である。

 

 

私が5才の頃、母とひろゆきは離婚をした。四六時中一緒にいるわけではない、という反動からか、小さい頃の私はパパ大好きっ子だった。勿論、一等に好きなのはママ!というのは私の人生において揺るがぬ事実だし、なんだかんだ言って私のことを誰よりも理解してくれるのもママ!なのだけれども、レアキャラの力はなかなかに強いものだ。


私の「パパ大好き期」のピークは小学生の頃だった。
「じゃあまた連絡するからお嬢も元気でね」(そう、ひろゆきはどういうわけだか私のことをお嬢と呼ぶ)と言い、去っていくひろゆきの車に手を振りながら、しょぼくれ涙ぐんだものだった。「何かあったら電話しなね」と言われていたのを思い出し、別れて2時間もしないうちに電話をかけたりした。しかし、心配をかけたくなくて(そして戻ってこい!と言ったところで戻ってこれるわけがないのも知っていたので)なんでもな~~いと言って電話を切った。そしてばななに頬ずりしながらべそをかいた。健気~。

 

こんなことを書くとえらく不憫にみえるが、実際のところ「会いたい時に自由に会っていいよ」というのが我が家のスタイルだったので、窮屈な思いをした覚えはない。
それに我が母を知っている人ならばわかってくださると思うのだけれども、彼女は類をみないほどの(特大級、全米が泣くレベルの)親バカなので、私の人生には「孤独な子ども時代」だとか「不幸な子ども時代」みたいなものは、まるでなかった。だって22才になって今でも一緒に寝たがるんだぜ?前髪をちょんまげにしたすっぴん顔を「世界一可愛い♡♡」とか言うんだぜ?待受画像、私の幼い時から今までの自作コラージュ写真なんだぜ?愛情不足なんて口が裂けても言えねえよ!!!!お母さんありがとう。

 

2008年7月21日、私の13才の誕生日。
私はひろゆきからの「おめでとう」メールをそわそわしながら待っていた。なんどもなんども受信問い合わせをしたものの、いつまで経ってもメールは届かない。電話もない。8才の時に携帯を買い与えられてから、毎年必ず送られてきていたのに!

「もうこないかも」と「そんなはずはない」の間をいったりきたりしている間に、時刻は23時59分になってしまった。ラスト1分、新着メールを知らせる通知に「もしかして!」と胸が高鳴った。が、残念ながらひろゆきからのメールではなかった。サプライズ精神旺盛な母の同僚からだった。大変失礼ながら“がっかり“が“嬉しさ“をニアピンで上回った。そして迎えた24時。2008年7月22日。私の誕生日は終わってしまった。
次の日も、その次の日も、ひろゆきからの連絡はなかった。1週間ほど経って、私はようやくひろゆきから「おめでとうメール」はこないのだと悟った。

実はその数ヶ月前、ちょっとした事件があった。些細な出来事ではあるのだが、そのせいでひろゆきは私に連絡をよこすのを遠慮したらしかった。私の推測なので、あくまで「らしかった」なのだけれども。

 

拗ねた13才の私はお返しとばかりに、ひろゆきの誕生日に電話もメールもしなかった。私にとっても、初めてのことだった。そうしている間に、なんと3年もの月日が経ってしまった。中学の3年間、ひろゆきと連絡を取ることは一度もなかった。誕生日も、お正月も、クリスマスも、何もなかった。毎年僅かな期待をしたし、毎年余計な意地を張った。そして毎年、期待をした分だけがっかりした。

一体ひろゆきは何を思ってその3年間を生きていたのだろうか。どういう風に朝起きて、会社に出かけていっていたのだろうか。夜寝る前、少しは私のことを考えたりしたのだろうか。私がそうしたように。

 


「パパ大好き期」を妙な形で拗らせた私は、思春期特有の陰気臭さも手伝って「パパってあんまり私のこと好きじゃないんじゃあないかしら」なんて考えたりするようになった。思春期少女の考えそうなことである。

13才の私には、ひろゆきの考えていることがさっぱり理解できなかった。14才になっても、15才になっても、やっぱりわからなかった。ちょっぴり悲しくて、ちょっぴり腹立たしかった。

 

結局、高校に入学する時に私から連絡をするようになって(感謝しろよひろゆき!)私とひろゆきは若干の余所余所しさと照れ臭さを纏わせつつも連絡をとったり、会うようになった。大学に入る頃には、もうすっかり「フツーの親子」に戻った。

「パパって私のこと好きじゃないの?」と思っていたあの頃の自分に言ってやりたい。「お前の父はトンチンカン星からきたトンチンカン星人なのだから、そりゃあトンチンカンなことをするのだ。意地を張っていないで自分から連絡してみなさい」と。

ひろゆきは不器用な男。何を考えているのかわかりづらい上に、照れ屋で愛情表現がどうにもこうにも下手くそ。そして娘心がわかっちゃあいない。思えば物心ついてから、ひろゆきに「かわいい」だとか「好きだよ」と言われた覚えが全くない。じゃあひろゆきが私のことを好きでないのかというと、多分、そういうわけでもない。大掃除をしていたら発掘した「2才のさいちゃん」の動画を見せたら、ニヤニヤしながらぼそりと「これあとでパパに送ってよ……」と言っていたし、ついひと月前も私が合宿免許に行く日をしっかり覚えていたらしく「 今週から免許の合宿かな?気をつけて頑張ってきてね(๑˃̵ᴗ˂̵) また帰ってきたら、ごはんでも行こうよヽ(´▽`)/」と相変わらず乙女チックなラインをよこしてきた。マメだなあ。そう、ひろゆきは私のことが大好きなのだ。年を経て、ちょっとは娘心を汲めるようになったのやもしれない。

 

しかしながら、大学1年生の時に「交換留学に選ばれたよ!半年後に留学することになった」という報告ラインをしたところ「おめでとう!パパも報告があって、来月に再婚するよ( ^ω^ )」というトンチキ爆弾な返事をよこしてきたあたり、やっぱりトンチンカン星人であることに変わりはなかった…。前言撤回!「来月に再婚するよ( ^ω^ )」じゃねーよ!!!!普通もうちょっと早く報告しない!?っていうか、ついでに、みたいなノリで再婚話をぶちこむんじゃあない!!!!!!(しかし奥さんは素敵な感じの人だったので、ますますひろゆきのトンチキミステリー度合いに拍車がかかった。なぜひろゆきなんだろう……)

 

 

2017年もあと2日で終わる。割といい年だったのではないかなあ、と思う。
もちろん「いい」とは言えど、人生なので...そして落ち込みやすい私なので、些細なことを含めれば嫌なことなんて、夜の渋谷を爆走するネズミの数くらいはあった。
ゼミの騒動でベッコリヘコみ、糊のききすぎたバリバリの就活スーツに身を包みながら池袋のスタバで1人涙ぐんだ日。素敵だなあ!と思っていた会社の面接でぺしゃんこなるくらいに圧迫され、茫然としながら布団にくるまって涙ぐんだ日。私の横ですやすやと眠る愛犬ばなちゃんを見ていたら胸がきゅーんと痛み「長生きしてくれよぅ」と涙ぐんだ日。別れ話をして公園で涙ぐんだ日。そしてバイト先でお客様に飲み物を引っ掛け、お客様に大層絞られ、カウンターの陰で涙ぐんだ!!!!!あの日!!!!!!!あ〜〜〜〜怖かった!!!!!!!!涙ぐんでばっかじゃねえか!!!!!涙を制御できないトンチキ女。ひろゆきのことバカにできない。同じトンチンカンDNAがしっかと受け継がれている……。

 

全くもって、人生嫌なことまみれ!アングリー、アンハッピー、アンラッキー!些細なことでてんてこ舞い。右往左往に涙ぐみ。けれども、そんな嫌なことたちを「あんなことあったナァ」と呑気に振り返ることができている自分がここにいる。「嫌な出来事レベル」では例年に負けていないはずだが、それでも「平和だった~~~~~!」なんて言えている自分がここにいる。

13才の私は今よりもっと涙もろく、怒りっぽく、そして繊細だった。今よりずっと傷つきやすく、そして立ち直りにくかった。22才の私は、どうだろう?

 

 

目前に迫るは2018年。何度も、何度もメールがきていないか確かめた「あの2008年」からもう10年が経とうとしている。13才の私はあんなにもひたむきに、健気に、そして痛々しく心を悩ませていたというのに、今となっては何がどうしてあんなに悲しかったのか、さっぱり思い出すことができない。痛々しい13才のさいちゃんも、涙を流しながら車を見送るいじらしい10才のさいちゃんも、もう、ここにはいない。今ここにいるのは、パパのことは今でも好きだけれど、私たちは別々の人間である、ということを理解できるようになった22才のさいちゃんだ。まあ、彼には彼なりの都合があったのだろうというのが、今では分かる。早いが話、私も大人になったのだ。
「私たちってば、こんなに中身変わらなくて大丈夫!?」というセリフは付き合いの長い友達との”cliche”というやつだが、実は、私たちはきちんと成長をしているらしい。2017年は例年通り嫌なことたちはあったものの、それらを引きずらず消化できるくらいには、大人になった。そう考えると、大人になるっていうのも然程悪いことではないのかもしれない。

 

なーんて格好つけてみたものの「自力で!この大人な私が!数々の嫌ごとたちを!後腐れなく!消化することができたのです!」と言うと、だいぶ語弊がある。滅相もございません。
ゼミの同期だった面々が変わらず仲良くしてくれているから、怒涛のゼミ騒動から立ち直ることができた。圧迫面接をされてブツブツな泣き言を言っている私を慰めるべく、彼氏が(別れたけどな!)びゅんと家までやってきてくれたから、布団の虫にならずに済んだ。今日も今日とて、ばなちゃんがぶりぶりと尻尾を振りながらのし掛かってくるから、いつか来たる別れの日をちょっぴりの間は忘れることができる。遊んでくれる友達がいたから、恋愛ごとに頭を悩ませずに済んだ。そしてお客様に怒られている間に冷えて出せなくなってしまった料理を「まかないが豪勢になったよ!もったいないから食べて食べて!」と言いながら食べさせてくれるキッチンさんがいて(ランチタイムの忙しい最中、料理を作り直す羽目になったのに!)「凹むことないよぅ~私なんかね~」と自分の体験談を聞かせてくれるホールの人がいて(私が対応に追われてしまったせいでめちゃくちゃ忙しくさせてしまったのに!)私が落ち込んでいることを聞きつけてラインまでくれた人たちが(その日シフトに入っていなかったのに超長文でラインくれた。あと本部の人は涙声の私に「大丈夫だよ、心配しなくていいからね」って言ってくれた。余計泣いた。)いるからこそ、私は今日も笑顔で生きることができている。ぴ〜。あ〜バイト先大好き!友達も大好き!ばなちゃんも大好き!母ヨーコも大好き!血の繋がった人からの愛。血の繋がらない人からの愛。私はそのどちらも手に入れることができた。ありがとう2017年。なかなかどうして、愛おしい年だった!

 

みなさま、2017年はどうもありがとうございました。2018年、ちょっとは大人になった(と思いたい)私をどうぞよろしく。未だに子供っぽい私のことも、重ねてどうぞよろしく。2017年にいただいたものを、少しでも返せたらな、と思う。私を大人にしてくれた人たちに。私を子どものままでいさせてくれた人たちに。まったく、いい年だった。

 

これにて私の「毎年恒例!1年振り返りブログ」を終わりにします。結局何が言いたかったのかわからない上に、なんも振り返れてないけど。パパのこと呼び捨てにした挙句、トンチンカン星人とか書いただけだけど。万が一、億が一でバレたら今度こそ交流断絶されてしまう!!!!!!!!!
空白の3年間については私も許すから、どうかチャラにしてください、パパ。

 

皆様にとって2018年が幸せな1年でありますように。
13才の私と、今の私と、23才の私から愛を込めて。よいお年を。

 

 

一つ、余談がある。
今年の夏、ひろゆきが誕生日プレゼントを買ってくれるというので二人で出かけた。(冒頭の「山本のハンバーグがいいかなぁ(*^ω^*)」はその約束をするラインだったのである)ちなみに靴と、岡本太郎のTシャツと岡本太郎のハンカチを買ってくれた。どんだけ岡本太郎。というか娘が岡本太郎グッズを欲しがっていると信じて疑わないのがやっぱりトンチキ。娘心をわかっちゃない。コメダ珈琲シロノワールをガン見しつつ「やべー美味しそうじゃん…でも最近本当に太ってきてるからなあ…」とか言いつつシロノワールを注文しちゃうあたりもトンチキ。

 

シロノワールを食べながらひろゆきが唐突に「最近の悩みはスマホの制限速度が遅くなること」であると語り出した。よく話を聞いてみると、どうやらこの男、データ通信量とスマホの容量が違うものであるということがわかっていないらしい。
「使い方がよく分かんないんだよね。ちょっと見てくんない?」そういってひろゆきは自分のiPhoneを取り出し、4桁の数字を打ってロックを解除した。そのロックナンバーを何気なく目で追って、私は心の中でアッ、と声をあげた。ちょっぴり嬉しくて、けれども照れくさくて、気づかぬふりをした。照れ屋なところは、やっぱり遺伝らしい。


 

 

ロックナンバー0721。7月21日、私の誕生日。

13才の私が鼻歌を歌っているのが、聞こえた気がした。

 

わたしはことば


子どもの頃、私は「本の虫」だった。兄弟もいないし、運動も好きでなかった私はとにかく本をよく読んだ。通信簿には「読書もいいですが、もっと外で遊びましょう」と書かれたのを覚えている。下校中に“歩きスマホ”ならぬ“歩き読書”をして見知らぬおじいちゃんに叱られたこともある。
赤毛のアン、メアリーポピンズ、長くつ下のピッピ、名探偵ポアロシリーズ、窓際のトットちゃん。私は小さい頃から「魔女」になるのが夢なゆめうつつなお花畑少女だったものだから、いつも夢の世界に連れて行ってくれるファンタジーを特に好んだ。「霧の向こうの不思議な町」は、7才の時に出会った本だけれど、大人になった今でも一等に好きだ。
もう少し大人になると親の本棚からよしもとばなな村上龍山田詠美なんかを引っ張り出して読んだり、中学の図書室にせっせと通い、楽園のつくりかたや(かおり~ん!)や鳩の栖、これは王国の鍵、かたつむり食堂といった素敵な本と出会った。
もっとも、最近はちっとも本を読んでいないので、読書ジャンキーの名は返上しなければいけないけれど……。

「魔女にはなれないかもナァ……」と薄々気づき始めた私は、読書少女にありがちなことだと思うんだけれども、今度は書き手になりたいと考えていた。
二つ前の記事でも書いたように、10歳の頃に自作ホームページで小説を公開したことをきっかけに、度々「物語づくり」を試みた。試みた、のだが、残念なことにどれ一つとして大成しなかったどころか、完結させることすらできなかった。私も「ははあ、完成すらしないんじゃ作家は無理だわ!才能無し」と早々に文字を書くことを投げ出した。

ただ、文を書く才能がないくせに、私は今日もこうして長々とブログを書いている。しかも、この趣味は当分はやめられそうにない。なぜだろう?多分、こうしてブログを書くたびに、誰かが「わたし」の存在を認めてくれるからだ。

ブログを書くようになったきっかけは反発心だった。
サークルでぶりっこだと言われたり、当時描いていた「絵日記」をバカにされたりして、どうしても一言言い返してやりたい!という気になった。なったはいいものの、残念ながら私に喧嘩をする度胸はなかった。
だから、意趣返しというか、遠回しな抗議のつもりで「何故わたしはぶりっこと言われるのか」というタイトルで、ぶりっこと言われる原因究明記事を書いて投稿をした。もっとも「原因究明記事」だなんて書くとさぞかし立派に思えるが、実際は最高にお粗末だ。寒いギャグで滑り散らかしていて、正直当時の記事は読み返したくないな……。
「どうかあいつらに伝わりますように」なんて意地の悪いことを思いつつ寝て起きたら、一通のラインがきていた。相手は同じサークルの女の子で「ブログを読んで共感したから、よかったら遊ぼう」という内容のものだった。

この経験で、自分の書いた「ことば」で誰かに認めてもらえることの充足感を知った。他にも中学の時は一度も話したことがなかった同級生とお互いのブログを通して仲良くなったり、なかなか興味深いことが多い。
こうしてブログを書くと、毎回誰かしらが反応をしてくれる。それだけでその日まるっと機嫌よく過ごせる。ついついにやけてしまう。画面を見ながら、スキップしたくなってしまう。最高に嬉しい。マジで嬉しい。ガチめに嬉しい。とってもハッピー!ありがと〜〜!

一度か二度、お愛想でしか話したことのなかったサークルの女の子。私たちは結局サークルを辞めた。だからあの日、今となってはこっ恥ずかしい「ことば」を綴らなければ、他人として生きていた可能性が高い。
趣味も、誕生日も、何もかもを知らなかったのに、彼女は今では私のだ〜〜〜いすきな友人の一人だ。初めての友達との旅行は彼女とだったし、国を跨いだロマンチックな小包の送り合いも彼女とだった。

なんだかこれって、私が幼い頃恋い焦がれた「ファンタジー」のような、不思議めいた運命の出来事なんじゃあないかと、近頃思う。魔女にはなれなかったし、物書きにもなれなかったけれど、大好きなファンタジーの世界をつくることは、できたのではないかと、今になって思う。


ことばは、私の武器だ。これで飯は食えないだろう。有名にもなれないだろう。けれど、本を通してあらゆる世界を旅した、今は亡き読書ジャンキー少女の残してくれた遺産だ。やっぱり私の武器であることは変わりはない。朝から晩まで、授業中でも下校中でも、車の中でだってことばを愛したわたしは、きっと、ことばそのものだ。


明日も私は、彼女と二人で町へ出かける。

“Don't you know that everybody's got a Fairyland of their own?”
― P.L. Travers, Mary Poppins

 

わたしはぬか漬け

 

2017年ももう半ばを過ぎた。毎年恒例の、悲しくなるほどありふれた台詞だが「あっという間だな」とつくづく思う。 この半年間を振り返ると「わたしはだれ」という問いと、そりゃもう嫌になるくらい生活を共にした日々を思い出す。
自分自身と向き合う作業は苦しいしやるせないし終わりがない。戸棚をひっくり返しても説明書は見つからないし、辺りを見渡してもカンペはない。
個人的にはさっさと同居を解消して三行半を突きつけ、合鍵を返して欲しかった。欲しかった、のだが「わたしはだれですか」さんはずっとそこに佇んでいる。ちなみに、現在進行形だ。全くもって強情な奴である

せっかくこんな「同居」をしているのだから、今後の自分のためにも、書き起こしておこう。そう思って今、ブログを書いている。

 

「わたしはぬか漬け」
そもそも、なぜ半年間にも渡って「わたしはだれ」さんと生活を共にすることになったのか。それは就職活動をしていたから、というのもあるし、学業やら恋愛やら私生活でも色々山あり谷ありのイベントが目白押しだったので(大してシリアスなものではないにせよ)否が応でも考えざるをえなかった、というところだ。

私は一言でいえば「地味」なやつだ。運動神経は1ミリも無いし(100メートルを走るのに20秒以上かかるし、跳び箱は人生で一度も跳べたことがない)学歴に特筆する点はなし。たまーに落書きをするものの、どれも「へのへのもへじ」に産毛が生えたレベルのものだ。容姿については、自分で書くのも悲しいので、お察し。

こんなザ・地味な私だが、「地味」という言葉は私の地雷ワードである。私は、昔から地味なのがコンプレックスだった。「特別」になれない、村人Dな自分が嫌だった。他人から地味と言われるのが嫌で仕方なかった。
高校の時、バイト先が同じだったイケイケの同級生が「なんであの子と友達なの?」と聞かれた、という話は“地味”に傷ついたし「中学生みたいな子」と言われると“地味”に腹がたつ。地味に傷つき、地味に怒る。とことん冴えない。
言われなくても知ってるよバ〜〜〜〜〜〜カ!!!!!お前のかあちゃんデベソ〜〜〜〜〜!ちょっと派手で友達が多いからって調子にのるなよ〜〜〜〜!!!(羨ましい!!!!)と内心では思いつつ「知ってる知ってる〜」と返答する自分が虚しかった。

ちなみに、大学入学時に「脱地味」を目標に、明るい茶髪とバッチバチのマツエクでデビューを試みたものの、あえなく失敗。似合わなすぎた。イケイケの仲間入りをするどころか、風俗の勧誘を受けて終わった。そしてサークルではぶりっこの称号を手に入れた。勿論陰口である。こんな私ですから、半年間にも渡って『わたし』という人間を外っ側から眺めてみたものの、その感想は「どうにも突出した個性が見つけにくい奴だナァ……」である。
「なんだかなァ」な私にとって、「わたしはだれ」の答えを見つける旅は長く果てしない。もちろん私の苦労なんて、世間の皆々様からしたら一息で吹っ飛ぶレベルというのは百も承知なのだけれど。それでも心がしんなりは、する。

今更どんな顔をして「これが私の個性です!」などと言えばいいのだろうか。というか、個性って何?オリンピック選手とか、学者とか、藤井四段でもなければ見つけらん無いよ、そんなの!といじけてみたり、逆になんだか愉快になってきて笑ってみたりする。そもそも自我とは……なんて、中二病じみたことを考えてみたりもする。「がらんどう」な自分と向き合う作業というのはひどく切ない。

20リットルバケツいっぱいに注がれた『周囲からどのような人物だと思われていますか水』でジャブジャブ洗われ、一息つく間もなく『あなたのやりがいはなんですかヌカミソ』に満ちたドラム缶にどっぷりと漬け込まれ、へなへなになったところで『本当にこの生き方でいいんですか包丁』で輪切りにされる。はい、美味しいぬか漬けの完成です!明日は美味しい炒飯の作り方をご紹介します。

「わたしはだれ」という問いに対する明確な答えは見つからない。たぶん、一生かかっても見つけだすことはできない。計算ドリルみたいに、巻末までめくれば見つけられるわけでも、恐らくない。人生が「巻末」になったって、わかりゃあしないのだ。
何十年漬け込まれても、私は所詮ぬか漬けみそ子。この世でもっとも難しい問いだと私は思う。私はいったい誰なのか、誰か教えて欲しい。

会いたい人がいる。

会いたい人がいる。

 

8歳の頃、転校をすることになった。寂しさはあまり無かった。くすぐったさや緊張の方がずっと大きかった。クラスメイトたちが開いてくれたお別れ会は和やかに進んだ。いよいよ「さよなら」という時、一人の男の子が私を廊下に呼び出した。「渡邉さんのやってた新聞係、僕、頑張るから」そう言いながら、毛糸とビーズで作った手作りのネックレスを手渡してくれた。心強くて温かくて、しばらくはそのネックレスを身につけて登校していた。今も戸棚にしまってある。恋だの愛だの、そういう類じゃなくたって、私を思って一つ一つビーズを紐に通した小さな手。それを思うと胸がほんのり痛くなる。あまり話すこともなかった、片桐くん。顔は朧げにしか思い出せない。平静を装った、少し上ずった声。彼は今、どこで何をしているのだろうか。

10歳の頃、初めてホームページを作った。日記、掲示板、そして自作のファンタジー小説。たった3つのコンテンツ。10歳の少女が書いた、未熟でありふれた小説を「好きだ」と言ってくれた人が1人だけいた。彼女は私が小説を更新する度、感想を掲示板に残し、時たま小説のキャラクターのイラストを描いてくれた。10年以上たった今、私の文章を「好き」といってくれる存在がどれほど貴重なのか、身にしみて思う。もう名前も、絵のタッチも思い出せない。結局小説は完結させることができなかった。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。

13歳の頃、4人グループで毎日のようにスカイプをしていた。私たちは子供向け掲示板で出会った。皆、年齢はだいたい同じで、家庭環境や趣味が似通っていた。私たちは自分たちのことを『4姉妹』と呼んだ。誕生日の日、誰よりも1番に「おめでとう」と言ってくれたのは彼女たちだった。新年の挨拶、学校の愚痴、おすすめの漫画やアニメ、好きな人の話。私たちはいつでも一緒だった。その日も、いつものように「じゃあね」と言い合ってパソコンの電源を落とした。その日を最後に、私たちが“花梨ちゃん”と呼んでいた子は二度と姿を現さなかった。私の1つ下。北海道在住。あんなに何もかもを共有していたのに、私たちが知っていたのはそれだけだった。私たちは何度もチャットにメッセージを残したけれど、彼女が再びオンラインになることはついになかった。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。

年を重ねる度、山ほどいる「会いたい人」の輪郭がぼやけていく。その出来事は覚えていても、どんな顔だったか、どんな声だったか、どんな言葉遣いだったか、どんな人だったか、思い出せないことが多い。もともとあまり交流が無かった人でも、とても親密だった人でも、等しく記憶は滲んでいく。私の世界にいないことが当たり前になっていく。それだというのに、彼らのことを考える度、私はなんだか切ない気持ちになるのだ。それは「もう会えない」と分かっているからかもしれないし、「私のことなんて覚えていないのだろうな」と思っているからなのかもしれない。実際、町ですれ違ったって、すぐそこにいたって、目の前で微笑んでいたって、分かりようがないのだ。そんな切ないことがあってたまるか!そう、しかし、それが現実である。あってたまるのだ。一度平行になってしまったら、交わらないようにできている。そういう風にできている。それでも、これからも続く長い人生のほんの短い間だったとしても、私が彼らにときめいたのは本当のこと。私は彼らの誕生日を祝い、彼らは私の誕生日を祝った。あの時、確かに“私たち”はひとりぼっちじゃなかったんだ。薄れ、滲んだそれぞれの記憶たちが、水彩画のように溶けて交わる。溶けて、交わって、今日の私を形作る。だから、薄れることに、罪悪感は抱かなくていいのだ。多分。積み重ねてきた一つ一つの出来事はあまりにもささやかすぎるが、人生とはそういう地味なものなのだと思う。地味だけど、楽しい。全員に理解されなくていい。いいよ。いいんだよ。私は今幸せです。友達、少ないけど、います。大変なこともあるけど、幸せです。去年も言ったね。今年も変わらず幸せです。

 

会いたい人がいる。いつか交わればいいな。そう思いながら、今日も私の記憶は滲む。