『わたしはだれ』 (2)わたしはことば

前回の続き、わたしはだれだシリーズその2

(2)「わたしはことば」

子どもの頃、私は「本の虫」だった。兄弟もいないし、運動も好きでなかった私はとにかく本をよく読んだ。通信簿には「読書もいいですが、もっと外で遊びましょう」と書かれたのを覚えている。下校中に“歩きスマホ”ならぬ“歩き読書”をして見知らぬおじいちゃんに叱られたこともある。
赤毛のアン、メアリーポピンズ、長くつ下のピッピ、名探偵ポアロシリーズ、窓際のトットちゃん。私は小さい頃から「魔女」になるのが夢なゆめうつつなお花畑少女だったものだから、いつも夢の世界に連れて行ってくれるファンタジーを特に好んだ。「霧の向こうの不思議な町」は、7才の時に出会った本だけれど、大人になった今でも一等に好きだ。
もう少し大人になると親の本棚からよしもとばなな村上龍山田詠美なんかを引っ張り出して読んだり、中学の図書室にせっせと通い、楽園のつくりかたや(かおり~ん!)や鳩の栖、これは王国の鍵、かたつむり食堂といった素敵な本と出会った。
もっとも、最近はちっとも本を読んでいないので、読書ジャンキーの名は返上しなければいけないけれど……。

「魔女にはなれないかもナァ……」と薄々気づき始めた私は、読書少女にありがちなことだと思うんだけれども、今度は書き手になりたいと考えていた。
二つ前の記事でも書いたように、10歳の頃に自作ホームページで小説を公開したことをきっかけに、度々「物語づくり」を試みた。試みた、のだが、残念なことにどれ一つとして大成しなかったどころか、完結させることすらできなかった。私も「ははあ、完成すらしないんじゃ作家は無理だわ!才能無し」と早々に文字を書くことを投げ出した。

ただ、文を書く才能がないくせに、私は今日もこうして長々とブログを書いている。しかも、この趣味は当分はやめられそうにない。なぜだろう?多分、こうしてブログを書くたびに、誰かが「わたし」の存在を認めてくれるからだ。

ブログを書くようになったきっかけは反発心だった。
サークルでぶりっこだと言われたり、当時描いていた「絵日記」をバカにされたりして、どうしても一言言い返してやりたい!という気になった。なったはいいものの、残念ながら私に喧嘩をする度胸はなかった。
だから、意趣返しというか、遠回しな抗議のつもりで「何故わたしはぶりっこと言われるのか」というタイトルで、ぶりっこと言われる原因究明記事を書いて投稿をした。もっとも「原因究明記事」だなんて書くとさぞかし立派に思えるが、実際は最高にお粗末だ。寒いギャグで滑り散らかしていて、正直当時の記事は読み返したくないな……。
「どうかあいつらに伝わりますように」なんて意地の悪いことを思いつつ寝て起きたら、一通のラインがきていた。相手は同じサークルの女の子で「ブログを読んで共感したから、よかったら遊ぼう」という内容のものだった。

この経験で、自分の書いた「ことば」で誰かに認めてもらえることの充足感を知った。他にも中学の時は一度も話したことがなかった同級生とお互いのブログを通して仲良くなったり、なかなか興味深いことが多い。
こうしてブログを書くと、毎回誰かしらが反応をしてくれる。それだけでその日まるっと機嫌よく過ごせる。ついついにやけてしまう。画面を見ながら、スキップしたくなってしまう。最高に嬉しい。マジで嬉しい。ガチめに嬉しい。とってもハッピー!ありがと〜〜!

一度か二度、お愛想でしか話したことのなかったサークルの女の子。私たちは結局サークルを辞めた。だからあの日、今となってはこっ恥ずかしい「ことば」を綴らなければ、他人として生きていた可能性が高い。
趣味も、誕生日も、何もかもを知らなかったのに、彼女は今では私のだ〜〜〜いすきな友人の一人だ。初めての友達との旅行は彼女とだったし、国を跨いだロマンチックな小包の送り合いも彼女とだった。

なんだかこれって、私が幼い頃恋い焦がれた「ファンタジー」のような、不思議めいた運命の出来事なんじゃあないかと、近頃思う。魔女にはなれなかったし、物書きにもなれなかったけれど、大好きなファンタジーの世界をつくることは、できたのではないかと、今になって思う。


ことばは、私の武器だ。これで飯は食えないだろう。有名にもなれないだろう。けれど、本を通してあらゆる世界を旅した、今は亡き読書ジャンキー少女の残してくれた遺産だ。やっぱり私の武器であることは変わりはない。朝から晩まで、授業中でも下校中でも、車の中でだってことばを愛したわたしは、きっと、ことばそのものだ。


明日も私は、彼女と二人で町へ出かける。

“Don't you know that everybody's got a Fairyland of their own?”
― P.L. Travers, Mary Poppins

 

『わたしはだれ』 (1)わたしはぬか漬け

 

2017年ももう半ばを過ぎた。毎年恒例の、悲しくなるほどありふれた台詞だが「あっという間だな」とつくづく思う。 この半年間を振り返ると「わたしはだれ」という問いと、そりゃもう嫌になるくらい生活を共にした日々を思い出す。
自分自身と向き合う作業は苦しいしやるせないし終わりがない。戸棚をひっくり返しても説明書は見つからないし、辺りを見渡してもカンペはない。
個人的にはさっさと同居を解消して三行半を突きつけ、合鍵を返して欲しかった。欲しかった、のだが「わたしはだれですか」さんはずっとそこに佇んでいる。ちなみに、現在進行形だ。全くもって強情な奴である

せっかくこんな「同居」をしているのだから、今後の自分のためにも、書き起こしておこう。そう思って今、ブログを書いている。ブログにしては途方にくれるくらい長くなるので、3日くらいにわけて書く(つもり)です。

 

(1)「わたしはぬか漬け」
そもそも、なぜ半年間にも渡って「わたしはだれ」さんと生活を共にすることになったのか。それは就職活動をしていたから、というのもあるし、学業やら恋愛やら私生活でも色々山あり谷ありのイベントが目白押しだったので(大してシリアスなものではないにせよ)否が応でも考えざるをえなかった、というところだ。

私は一言でいえば「地味」なやつだ。運動神経は1ミリも無いし(100メートルを走るのに20秒以上かかるし、跳び箱は人生で一度も跳べたことがない)学歴に特筆する点はなし。たまーに落書きをするものの、どれも「へのへのもへじ」に産毛が生えたレベルのものだ。容姿については、自分で書くのも悲しいので、お察し。

こんなザ・地味な私だが、「地味」という言葉は私の地雷ワードである。私は、昔から地味なのがコンプレックスだった。「特別」になれない、村人Dな自分が嫌だった。他人から地味と言われるのが嫌で仕方なかった。
高校の時、バイト先が同じだったイケイケの同級生が「なんであの子と友達なの?」と聞かれた、という話は“地味”に傷ついたし「中学生みたいな子」と言われると“地味”に腹がたつ。地味に傷つき、地味に怒る。とことん冴えない。
言われなくても知ってるよバ〜〜〜〜〜〜カ!!!!!お前のかあちゃんデベソ〜〜〜〜〜!ちょっと派手で友達が多いからって調子にのるなよ〜〜〜〜!!!(羨ましい!!!!)と内心では思いつつ「知ってる知ってる〜」と返答する自分が虚しかった。

ちなみに、大学入学時に「脱☆地味」を目標に、明るい茶髪とバッチバチのマツエクでデビューを試みたものの、あえなく失敗。似合わなすぎた。イケイケの仲間入りをするどころか、風俗の勧誘を受けて終わった。そしてサークルではぶりっこの称号を手に入れた。勿論陰口である!こんな私ですから、半年間にも渡って『わたし』という人間を外っ側から眺めてみたものの、その感想は「どうにも突出した個性が見つけにくい奴だナァ……」である。
「なんだかなァ」な私にとって、「わたしはだれ」の答えを見つける旅は長く果てしない。もちろん私の苦労なんて、世間の皆々様からしたら一息で吹っ飛ぶレベルというのは百も承知なのだけれど。それでも心がしんなりは、する。

今更どんな顔をして「これが私の個性です!」などと言えばいいのだろうか。というか、個性って何?オリンピック選手とか、学者とか、藤井四段でもなければ見つけらん無いよ、そんなの!といじけてみたり、逆になんだか愉快になってきてアッハッハと笑ってみたりする。そもそも人間における自我とは……なんて、哲学者ぶってみたりもする。ああもう全く「がらんどう」な自分と向き合う作業というのはひどく切ない。

20リットルバケツいっぱいに注がれた『周囲からどのような人物だと思われていますか水』でジャブジャブ洗われ、一息つく間もなく『あなたのやりがいはなんですかヌカミソ』に満ちたドラム缶にどっぷりと漬け込まれ、へなへなになったところで『本当にこの生き方でいいんですか包丁』で輪切りにされる。はい、美味しいぬか漬けの完成です!明日は美味しい炒飯の作り方をご紹介します。

「わたしはだれ」という問いに対する明確な答えは見つからない。たぶん、一生かかっても見つけだすことはできない。計算ドリルみたいに、巻末を見れば見つけられるわけでも、恐らくない。人生が「巻末」になったって、わかりゃあしないのだ。
何十年漬け込まれても、私は所詮ぬか漬けみそ子。アイデンティファイ・ユア・セルフ。この世でもっとも難しい問いだと、私は思う。神様仏様どっかのだれか様。私はいったい、誰ですか?


あしたにつづく

会いたい人がいる。

会いたい人がいる。

 

8歳の頃、転校をすることになった。寂しさはあまり無かった。くすぐったさや緊張の方がずっと大きかった。クラスメイトたちが開いてくれたお別れ会は和やかに進んだ。いよいよ「さよなら」という時、一人の男の子が私を廊下に呼び出した。「渡邉さんのやってた新聞係、僕、頑張るから」そう言いながら、毛糸とビーズで作った手作りのネックレスを手渡してくれた。心強くて温かくて、しばらくはそのネックレスを身につけて登校していた。今も戸棚にしまってある。恋だの愛だの、そういう類じゃなくたって、私を思って一つ一つビーズを紐に通した小さな手。それを思うと胸がほんのり痛くなる。あまり話すこともなかった、片桐くん。顔は朧げにしか思い出せない。平静を装った、少し上ずった声。彼は今、どこで何をしているのだろうか。

10歳の頃、初めてホームページを作った。日記、掲示板、そして自作のファンタジー小説。たった3つのコンテンツ。10歳の少女が書いた、未熟でありふれた小説を「好きだ」と言ってくれた人が1人だけいた。彼女は私が小説を更新する度、感想を掲示板に残し、時たま小説のキャラクターのイラストを描いてくれた。10年以上たった今、私の文章を「好き」といってくれる存在がどれほど貴重なのか、身にしみて思う。もう名前も、絵のタッチも思い出せない。結局小説は完結させることができなかった。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。

13歳の頃、4人グループで毎日のようにスカイプをしていた。私たちは子供向け掲示板で出会った。皆、年齢はだいたい同じで、家庭環境や趣味が似通っていた。私たちは自分たちのことを『4姉妹』と呼んだ。誕生日の日、誰よりも1番に「おめでとう」と言ってくれたのは彼女たちだった。新年の挨拶、学校の愚痴、おすすめの漫画やアニメ、好きな人の話。私たちはいつでも一緒だった。その日も、いつものように「じゃあね」と言い合ってパソコンの電源を落とした。その日を最後に、私たちが“花梨ちゃん”と呼んでいた子は二度と姿を現さなかった。私の1つ下。北海道在住。あんなに何もかもを共有していたのに、私たちが知っていたのはそれだけだった。私たちは何度もチャットにメッセージを残したけれど、彼女が再びオンラインになることはついになかった。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。

年を重ねる度、山ほどいる「会いたい人」の輪郭がぼやけていく。その出来事は覚えていても、どんな顔だったか、どんな声だったか、どんな言葉遣いだったか、どんな人だったか、思い出せないことが多い。もともとあまり交流が無かった人でも、とても親密だった人でも、等しく記憶は滲んでいく。私の世界にいないことが当たり前になっていく。それだというのに、彼らのことを考える度、私はなんだか切ない気持ちになるのだ。それは「もう会えない」と分かっているからかもしれないし、「私のことなんて覚えていないのだろうな」と思っているからなのかもしれない。実際、町ですれ違ったって、すぐそこにいたって、目の前で微笑んでいたって、分かりようがないのだ。そんな切ないことがあってたまるか!そう、しかし、それが現実である。あってたまるのだ。一度平行になってしまったら、交わらないようにできている。そういう風にできている。それでも、これからも続く長い人生のほんの短い間だったとしても、私が彼らにときめいたのは本当のこと。私は彼らの誕生日を祝い、彼らは私の誕生日を祝った。あの時、確かに“私たち”はひとりぼっちじゃなかったんだ。薄れ、滲んだそれぞれの記憶たちが、水彩画のように溶けて交わる。溶けて、交わって、今日の私を形作る。だから、薄れることに、罪悪感は抱かなくていいのだ。多分。積み重ねてきた一つ一つの出来事はあまりにもささやかすぎるが、人生とはそういう地味なものなのだと思う。地味だけど、楽しい。全員に理解されなくていい。いいよ。いいんだよ。私は今幸せです。友達、少ないけど、います。大変なこともあるけど、幸せです。去年も言ったね。今年も変わらず幸せです。

 

会いたい人がいる。いつか交わればいいな。そう思いながら、今日も私の記憶は滲む。